知っておきたい日本の森の歴史

知っておきたい日本の森の歴史
森林は人間の生活に密接に関わっています。木々は二酸化炭素を吸収して温暖化を抑えたり、雨水を土壌にためて水質を綺麗にしたりする役割があります。そんな森林と人間の出会いは縄文時代までさかのぼります。ここでは、日本の森の歴史を紹介します。

日本の森の歴史

縄文時代に里山が現れる

縄文時代中期、人々は食料であるドングリの灰汁を抜き、調理するために火を使用するようになります。この時、食べられる植物の栽培も始まります。青森県で見つかった三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)で、ゴミ捨て場からたくさんの栗が発見されました。そしてDNA分析した結果、栽培していたことが明らかとなったのです。栗の他に、とちの実・木苺・ごぼう・ひえなど栽培して食べていたことがわかります。この時代に、森林に手を入れて管理する里山の原型ができていたとされています。

森林伐採禁止令・森林荒廃へ

歴史時代に入ると、水稲を栽培する水田耕作の肥料として森が利用されるようになります。風土記によると松ヤニといったさまざまな草木が薬用に使用されていたと記され、人々の知恵によって森を活用する幅が広がったことが読み取れます。

一方、建築用の木材の需要増加や水田開拓をきっかけに森林伐採が進むようになりました。日本書紀によると、天武天皇が飛鳥川上流の皇居に近い地域(畿内)の草木採取・山野の伐採を禁止する命令を発令しました。この発令が森林伐採禁止令で最も古い記録となっています。平城京や寺社仏閣の建築ブームが重なり、800年代までには畿内に相当する森林がなくなり、600~850年は日本の森林荒廃の始まりとされています。

燃料材の需要増加

建築用材・農耕社会の利用、工業の燃料材としての需要が徐々に増えました。当時、大量の燃料が必要だったのが、製塩業です。
瀬戸内海地方では製塩の燃料として木が多く利用されていました。海水を煮詰めて塩を取り出すには薪が必要となります。製塩業の中心地である兵庫県・播磨国赤穂(はりまのくにあこう)では松葉などが大量に使われ、当初は塩田周辺の山林から供給されていましたが、やがて内陸・瀬戸内の島々へ拡大し、塩木山だけでなく農民の山にまで伐採の手が入るようになったのです。

人口増加・進む森林破壊

古代から中世、近畿といった先進地域を中心に人口が増えるとともに森林需要は増加、したがって森林は減少していきます。武家政権以降も木材需要は増加し続けました。武士の拠り所である禅の寺院建造や御家人の住居建設、農民による水田開発などが挙げられます。戦国時代に入ると、刀剣・鉄砲などの武器製造、砦などの建築に多くの木材が使用されるため、乱伐は続きました。

室町時代、静岡県・犬居町秋葉神社で、スギ・ヒノキの植林、奈良県・吉野川上郡ではスギの植林が始まります。この辺が本格的な人工造林の最古の記録とされています。

1550年、森林の荒廃・洪水を防止するために植林が推奨され、安土桃山時代に武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)で数万本の苗を植えて、野原を切り開き木を増やしたという史実も存在します。このように植林が進められていましたが、戦乱語の復興や華やかな建築物の建設などにより森林震源が使い尽くされます。

江戸時代に入ってからも森林破壊の勢力は留まることなく、1710年までに本州・四国・九州・北海道南部に森林のほとんどがなくなったと言われています。森林資源を過剰に使用したことで、日本列島各地に禿げ山ができ、木が取れなくなっただけでなく、河川氾濫などの災厄が生じました。

森林再生に向けて-江戸時代

禿げ山は度々起こる洪水の原因となります。江戸時代、幕府と諸蕃は河川の付け替えといった治水と森林保全に取り掛かります。森林保全は、禁伐採を指定する保護林政策と伐採禁止、植裁・土砂留麹を組み合わせて行い、保護林政策が厳しくなったことがわかります。江戸時代の森林は、藩有林・村持山などの私有林に分けて、森林の管理は藩が行っていました。
江戸幕府は代官所(役所)に村々での植樹・造林を命じます。1661年、幕府と諸蕃は森林資源を維持するために「御林(下草や枯れ枝の採集を禁じたもの)」を設けます。このように、江戸幕府の厳しい取り締まりの結果、日本列島の森林資源は回復に向かいました。

まとめ

昔は木の過剰な利用によって森林減少の危機に陥っていましたが、現在、国内の木を使用しなくなったことで危機に直面しています。現状を打破するために、木材需要を増やす対策や荒廃した森林を復活させる取り組みが進められています。日本の窮地を救うためにも、意識して国産木材を使っていきたいところです。

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